EXHIBITION
和田邦坊画業館 企画展PROFILE
和田邦坊について
香川県出身の和田邦坊(1899-1992)は、時事漫画家、小説家、商業プロデューサー、讃岐民芸館館長、デザイナー、画家として活躍した人物です。代表作は、お札を燃やしている船成金の風刺漫画、小説『うちの女房にゃ髭がある』など。戦後は、香川県民であれば誰もが知る物産品の数々をデザインし「香川のデザインは邦坊のデザイン」と謳われる時代を作り上げました。画家としての活躍もあり、デザイナーの剣持勇から依頼を受けて制作した障壁画《讃岐の松》は、現在も知事応接室に展示されており県民の目にも馴染み深い作品です。昭和40年代、障壁画をみた版画家・棟方志功は「香川県庁大広間の和田邦坊画伯の大画業は今世の絶大に数えられるべきものと感嘆やまないことです」と絶賛しています。また、彫刻家のイサム・ノグチも「邦坊さんの絵 それは日本の神様が遊んでいる形です」と表現し、世界的アーティストたちからも支持された画業を残しています。
KUNIBO WADA WORKS
時事漫画・小説の仕事
30代の邦坊は、東京日日新聞(現毎日新聞)の時事漫画家として勤務しながら小説家としてもデビューしています。新聞だけでなく雑誌でも人気を集め、売れっ子作家として幅広く活躍しました。
デザインの仕事
邦坊は、昭和30~50年代にかけて栗林公園内にある讃岐民芸館で香川県の嘱託職員として勤務していました。当時の県知事・金子正則からの信任を受けて香川県の広報物のデザインも数多く手掛けています。
絵画の仕事
邦坊は、時事漫画家、小説家、農事講習所の教員、讃岐民芸館館長、デザイナー、商業プロデューサーなど多才な肩書を持っていましたが本人は「画家でありたい」と願い続けていたといいます。アカデミックな活動はないため美術史に名前を残すような実績はありませんが、帰郷してから香川を離れることはなく様々な仕事を手掛けながら讃岐を描き続けました。
年表
| 和暦 (西暦) |
年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 明治32年 (1899) |
0歳 | 8月24日、ジャーナリストの和田菊処の長男として琴平町で生まれる。 |
| 明治39年 (1906) |
7歳 | 四番丁尋常小学校に入学。 |
| 大正元年 (1912) |
13歳 | 高松中学校に入学。蓄膿症にかかり勉強に自信を無くして中退する。 同級生とともに家出し岡田三郎助が主催する本郷洋画研究所に入所。近藤浩一路や岡本一平の漫画に興味を持ち始め、帰郷後は父親と同じ四国民報社(現四国新聞社)に勤務する。 |
| 大正11年 (1922) |
23歳 | 有力者の紹介で大阪にあるプラトン社に入社。『女性』『苦楽』の雑誌編集の仕事に携わる。 |
| 昭和4年 (1929) |
30歳 | 政治家・三土忠造の紹介状を持参して東京日日新聞(現毎日新聞)に入社。 雑誌の仕事も受けるようになり小説家として活躍. 憧れの岡本一平のライバルと謳われる時代を過ごし、売れっ子作家として一世風靡する。 |
| 昭和13年 (1938) |
39歳 | 戦況悪化と心身の不調により帰郷を決意する。 |
| 昭和16年 (1941) |
42歳 | 琴平町に居住しながら農事講習所で講師として勤務する。一般教養として絵画の指導を行い、終戦を待つ。 |
| 昭和29年 (1954) |
55歳 | 香川県商工奨励館にて嘱託職員として勤務。讃岐民芸館の設立準備や県内の企業にデザイン指導を行う。 |
| 昭和39年 (1964) |
65歳 | 香川県文化功労者として知事表彰される。 |
| 昭和40年 (1965) |
66歳 | 讃岐民芸館、開館。初代館長に就任する。 |
| 昭和41年 (1966) |
67歳 | 四国新聞文化賞を受賞する。 |
| 昭和47年 (1972) |
73歳 | 初個展「和田邦坊展」を香川県文化会館で開催。 |
| 昭和57年 (1982) |
83歳 | 日本パッケージデザイン協会/特別賞を受賞。 |
| 昭和58年 (1983) |
84歳 | 脳血栓の再発。闘病生活が始まる。 |
| 平成4年 (1992) |
93歳 | 11月7日、永眠。 |

