邦坊が作詞した軍歌「おいらの部隊」
| 学芸室より
2022年8月15日、終戦記念日
NHKの特番で戦争ものが続くと「ああ、8月だなあ・・・」としみじみと夏を感じます。今日は終戦記念日。特別に何かするわけではありませんが、自分の研究フィールドと寄り添わせながら戦争について少し考える日にしたいと思います。
「戦争反対!」とは言えない時代
和田邦坊は、入隊経験はありますが病気などを理由にして戦地には派遣されていません。東京時代は、漫画で戦況を伝えるような仕事もしていましたが香川に帰郷してからは戦争について持論を述べるような機会はありませんでした。最近、戦時中に関連する記事を見つけました。これから資料調査をすすめていくところですが「戦争について否定も肯定もしない、とにかく語らない」というのが邦坊のスタンスだったようです。また「邦坊さんは非戦の人」とも言われがちですが「戦争反対!」と豪語しているわけではありません。ただ、静かに耐えていた…という印象をもっています。といいながらも国威高揚を促すような軍歌も作詞しているので、戦争と関わることを拒否していたというわけではありません。当時の状況に抗えなかったにしろ、戦争を肯定する創作活動も残しています。昭和14年(1939)に発表した軍歌を紹介しましょう。
おいらの部隊(作詞・和田邦坊)
おいらの部隊 和田邦坊
『ことひら』1月号、ことひら誌社、昭和14年より
一
船の出る時 萬歳と
歓呼の波の 彼方から
銃を挙げろと 呼ぶ聲は
一太郎ヤーイの 母魂
讃岐男は 嬉しい部隊
二
躍る銃剣 突き込む刃
屋島嵐に 靡くこと
なんの呉淞 嘉定など
敵前上陸 おいらが得意
讃岐男は 素速い部隊
―
三
共に進んで 斬り込んで
難攻不落の 月浦鎮
月夜烏に 血が匂ふ
山と海とで 鍛へたこの手
讃岐男は 度強い部隊
四
戦ひ半ば 日が落ちて
敵のトーチカ 眼近に眺め
一時仮寝の 高鼾
讃岐小富士は 小粒でも
讃岐男は 膽よい部隊
五
郷土のたよりは 豊年の
銃後は嬉し 米の山
金比羅さまの 日参に
ニツト笑つた 髭面ゑくぼ
讃岐男は 元気な部隊
戦争利用される故郷…
地元の同人誌で発表された軍歌は、讃岐人を戦争に送りだす言葉で構成されています。香川の名勝地が盛り込まれているところがなんとも悲しい気分になります。故郷を守るために戦うのだ!と言わんばかりに愛しい故郷を利用しているようです。「一太郎ヤーイの 母魂」のフレーズは、日露戦争に出生する息子を送り出す母親の話がもとになっており、香川県民であれば誰もが知る軍国美談です。これから上陸作戦が始まる中国の地名(呉淞・嘉定)が登場している点も当時の戦況を思うとリアリティがあります。また、この同人誌ではメロディまで確認することはできませんが、気持ちを昂らせるような音が作られていたことも推測できます。
※美術館には和田邦坊旧蔵品として古写真を収蔵しています。国民服を着た邦坊、出征を見送る写真など時代を写す貴重な情報を読み解くことができます。
和田邦坊と戦争について
邦坊が作詞した軍歌は、いままで美術館で紹介してきた邦坊の創作物とはかなり一線を画した作品になることが分かります。ユーモアを愛した邦坊らしさはありませんが戦時下を生きた邦坊の証でもあり、日本の歴史を語るうえでは避けて通ることはできない時代でもあります。美術館は、面白く楽しい邦坊人生を紹介したいという思いもありますが、いつかこの時代に注目した邦坊画伯の作品とその周辺についても研究・発表をしていきたいと考えています。戦争に翻弄された農事講習所の変遷・映画の誘致など、また違う視点で戦争と邦坊を検証していきたいです。以上、今日のこの日に少し考えたことを綴りました。
<追伸>最後に紹介した写真は、農事講習所時代の邦坊と女学生たちです。戦況が悪化すると学校に在籍していた男子学生も招集されるようになり、存続もかねて女子の入学を認めるようになりました。どうやら邦坊は女子学生の担当?だったようで、女子学生たちと笑いあう写真が数多く残されています。大変な時代を生きた人々のささやかな喜びや楽しみを感じてもらえると幸いです。