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学芸員のイチオシ・こけし人形

いつも開催しているギャラリートークは、今回の企画展では一度も行うことはできませんでした。キャプションの解説もつけていますが、いろいろ補足したいことも多いわけで…。ということで、学芸員が推す展示作品を千秋楽に向けてご紹介します。


山内金三郎と和田邦坊

邦坊の教養は、様々な仕事ぶりから垣間見ることができますが、それは父親の厳しい躾だけでなく、東京時代の上司・小野賢一郎(1888- 1943)の指導があったといいます。そして、もうひとり邦坊の人生に大きな影響を与えた人物がいます。それは山内金三郎(1886-1966)です。あまり邦坊が語るインタビューのなかで山内は登場していませんが、美術館が所蔵する書簡から2人の深い関係性を知ることができました。山内と邦坊は、編集者と作家という関係でした。新聞漫画家として就職した邦坊は、徐々に所属先以外の仕事も受けるようになり、そのなかで小説家としての成長を山内が支えてくれたといいます。山内は、郷土玩具や大津絵のコレクターとして有名で、現在も歴史や美術史研究のなかで注目されています。邦坊も若いころから郷土玩具に興味を持っていたので山内から人形(展示している右側の人形)を貰うことになったようです。書簡では、邦坊が山内に対して詫び状を出しています。内容は省略しますが「僕のものがだんだんよくなッて来たと自分で思ふのは確かに(山内が在籍していた雑誌)主婦の友のおかげで貴兄のおかげだと思ッてゐるんです」「今後とも貴兄の指導を仰がねばならぬ僕ですから」など熱い思いを綴り、自分を育ててくれた山内を「貴兄」と呼んでいます。邦坊は、誰かに何かを教えてもらうことはなかった、師匠など持ったことはないと言い続けていましたが、これほど大切に思う存在がいたことは、大変興味深い発見です。邦坊が東京から離れたあと2人は疎遠になったようですが、山内から貰った人形は終生大切に持ち続けていました。

こけし人形は「讃岐おもちゃの会」の会報誌のなかで挿絵として登場しています。寄稿文を読むと、東京時代の苦労を思い出しながら山内について「もう一度会いたいと思う一人の紳士」と振り返っています。そして「(すでに亡くなっているけれど)玩具ともう一つ、二人だけが知っている内密話をしたいと思うンだ」と綴り、尊敬する山内を偲んでいます。

参考文献  『ふりつち』第52号、讃岐おもちゃの会、昭和52年(1977)


企画展「秋の夜ばなし/冬来たりなば」は、中止も考えていた展示でした。というのも、コロナの状況が読めず、また休館になるようであれば自粛した方がいいのでは…という意見もあったからです。最終的に県内の文化施設の様子をみながら開催することを決定しましたが、限られた予算と時間をカバーするために、無理をしすぎたところもあります。ちょっと疲れた展示でした。無事に千秋楽を迎えられてホッとしています。